箏曲家 鈴木 創
プロフィール
鈴木 創 (すずきはじめ)
生田流箏曲宮城社大師範。群馬県前橋市生まれ。10歳で川端光永師に入門し、15歳で職格を得る。大学卒業後は建設会社に勤務していたが退社し、箏曲の道に進む。現在、群馬県を中心に各地で演奏活動を行う他、後進の育成にも努める。
地歌古典曲や宮城道雄作品を中心に演奏を行う他、「日本の音を、あなたのそばに。」をテーマに、多くの方に気軽に邦楽に触れていただきたく、身近な会場でわかりやすい解説を伴う演奏や、演奏体験イベント、学校訪問なども行っている。
箏曲宮城会・日本三曲協会、会員。温故和楽会理事・事務局長。仁智の会主宰。
http://www.hajime-koto.jp
《所属団体・公職等》
箏曲宮城会(及び関東支部)
日本三曲協会
温故和楽会 理事・事務局長
伝統邦楽振興会
群馬音楽家集団
前橋立教会 会長
群馬大学附属中学校同窓会 初期
共愛学園賛助会 顧問(元会長)
前橋中心商店街協同組合 広報委員
学校法人大出学園 評議員
前橋銀座一丁目商店街振興会 理事
一般社団法人紺屋町 代表理事
前橋まちなか音楽祭 実行委員長
前橋鈴木貫太郎顕彰会 理事・事務局長
朔太郎音楽祭実行委員会委員(企画部会)
前橋紫陽花フェスティバル 実行委員会副委員長
前橋まちなかチャンネル 実行委員会副委員長
NPO法人ぶどうの木 理事
前橋商工会議所
前橋デザインコミッション
《学歴》
群馬大学教育学部附属中学校 平成3年卒
群馬県立前橋高等学校 平成6年卒
立教大学経済学部経済学科 平成12年卒
University of Essex Postgraduate Diploma
ちょっと物語的なプロフィール
昭和50年群馬県前橋市生まれ。
もともと、母が中学生の頃にお箏を習っていた。
母は、結婚・子育てなどの時代にブランクがあったものの、私が小学校に入った頃、同じ先生の元に三絃のお稽古に通い出す。
私もしばしばお稽古や合奏練習についていき、演奏会などにも聴きに行っていた。
ある時、演奏会で「春の賦」の合奏を聴き、お箏を始めたくなる。母と同じ生田流箏曲宮城社大師範 川端光永師 に入門。
たまたま、同門に同い年や年齢の近い仲間がいたこともあり、親師匠には、今思えばかなりチャレンジングなことを課され、お互いに切磋琢磨していた。
そのおかげか、高校に入学したころ、15歳で「助教」という職格(いわゆる「先生」の資格)を得る。
高校時代は、学校の部活には入らずに、お箏三絃の練習と、生徒会活動に励む。
大学受験時に、一般の大学を受験するか、箏の道のために東京藝術大学を受験するか悩み、家族などと相談の上、その時には立教大学に進学。
大学時代から、以前より数回ご指導を受けていた、東京藝術大学講師の元へ定期的に通うようになる。
平成9年、宮城宗家「教師」試験に合格。
大学卒業後、24歳で母方の祖父が経営する建設会社に入社し、母方の祖父母と養子縁組し、母方の名字となる。
群馬県前橋市の本社で経理部に勤務ののち、英国に留学。帰国後、総合企画部勤務。
その後、さいたま支店に転勤となり、営業部に配属。「ゼネコンの営業マン」としての歩みが始まる。
前橋市の本社に戻ってからも、営業一筋の会社員生活。今でも、当時担当した建物やお客様の前を通ると気になるし、今でもご縁が続いている方もいらしゃる。
入社後しばらくは、なかなか練習などができる環境になかったが、ある時、お世話にになっている東京藝術大学でも指導をしている先生の演奏を聴きに行ったことがきっかけで、再開。
親師匠関係の演奏会などに出演させていただいたり、会社勤めの傍ら演奏活動を行う。
平成24年、宮城社「師範」をいただく。
元々は進みたかった箏の道。再開してみると封印していた想いが蘇ってきた。
また、祖父の不本意な形での引退や、身内の様々な出来事、また私の周りの環境変化が私を精神的に追い詰めていった。
40歳の足音が近づいてきた頃、その精神的な負担が体を蝕み、体調を崩した。
その時に、初めて自分の人生の幸せを考えた。
それまでは、会社のこと、家のこと、まわりのことなどを優先としてきて、自分のことを考ていなかった。
むしろ、そういった自分を取り囲むことに対して、自分が身を削っていくことを優先していた。
しかし、初めて自分の幸せを考えた時、本当にやりたいことに進むことが大切なのではないかと気づいた。
そして、箏曲の活動をさらに本格化させるべく、平成27年に15年間勤務した会社を退社し、箏曲家として歩み始め、開軒。それに伴い父方の名字に復姓。
箏曲をはじめとする日本文化を、現代の日本の方に直接触れていただきたい、身近に感じていただきたい。
聴いていただいた方・演奏者共に音楽の楽しさ・喜び・感動を感じられるよう、
楽曲の魅力・楽器の音の素晴らしさを最大限表現できる演奏を目指し、自分の精進に努めている。
令和元年7月、宮城社「大師範」をいただく。